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<<   作成日時 : 2014/03/30 21:05   >>

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白鷺城とも呼ばれる世界遺産・国宝の姫路城(兵庫県姫路市)大修理を終え、囲いにかかっていたシートが外され、鉄骨越しに美しい姿を見せ始めた。

瓦をふき替え、黒ずんだしっくいを塗り直した「平成の大修理」は2009年10月に始まり、13年11月に終了。工事用の囲いを解体する作業が進んでおり、大天守内部は1年後の15年3月27日に公開される。

こんばんは。

NHKの大河ドラマ、黒田官兵衛でなにかと姫路がでてくるので雑学を少々w

僕も姫路城には10回以上行っています。

別名、白鷺城と呼ばれるくらいにとても優雅で美しいお城です。

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天守閣まで登って、景観を楽しみ降りるときに各階の展示物を見るわけですが、登りより降りるときに足の筋肉には相当な負担がかかるようで、必ず両足筋肉痛になります(爆)

姫路といえば、僕の中ではセントラルパーク。

ここに行ったついでに姫路城見物するのがパターンでしたね。

姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代といわれています。

以来、13氏・48代が城主を務め、戦塵にまみれることなく今日にいたっています。

赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が城に夢を託して拡張、いま見られる全容が整ったのは戦乱の世が落着いた1617年のことです。

姫路の名前の由来

「姫路」の名は、播磨国風土記に出てくる「日女道丘」からきています。

神代の昔、大汝命(おおなむちのみこと)は、その子火明命(ほあかりのみこと)があまりに乱暴者なので、海へ出た際、捨ててしまおうと島に置き去りにして船出。

ところが、船が出てゆくのに気づいた火明命は大変怒り、風波を起こして船を難破させてしまいました。

その時、船や積み荷などが流れ着いた場所に「船丘」「犬丘」「筥(はこ)丘」「琴丘」など14丘の名が付けられましたが、その一つ、蚕子(ひめこ)の流れ着いたところが「日女道丘(ひめじおか)」で、現在姫路城のある「姫山」であるとされています。

「蚕子」は古語で「ひめじ」といいました。

地名としての「姫路」という呼び方は、江戸時代初期、池田輝政が姫路城を築き、城下町を整備した当時の文献に見られます。

姫路城にはいろいろな言い伝えが残っていますが、その中でも有名なのは「播州皿屋敷」でしょうか。

幼いころは夏の定番で、「お岩さん」「「播州皿屋敷」(おきくさん)の映画がTVで流れてましたから><

城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれています。

お菊井戸

永正年間のこと、城主小寺則職の執権青山鉄山が城の乗っ取りを計画。

これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀を暴きます。

しかし、努力のかいもなく、青山一家のクーデターは成功。

それでもお菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を送っていましたが、ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、それを盾に結婚を迫られます。

しかし、お菊はどうしても首を縦に振りません。

腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して井戸に投げ込みました。

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それからというもの毎夜、「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったといいます。

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その後、元信ら忠臣によって鉄山一味は滅ぼされ、お菊は「於菊大明神」として十二所神社の境内にあるお菊神社に祭られています。

姥(うば)が石

羽柴秀吉が姫山に三層の天守を築いていたときのこと、城の石垣の石がなかなか集まらず、苦労しているという話が広まっていました。

城下で焼餅を売っていた貧しい老婆がそれを聞き、「せめてこれでもお役に立てば」と古くなった石臼(うす)を差し出しました。

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これを知った秀吉は大変喜び、石臼を現在の乾小天守北側の石垣に使いました。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したため、工事が順調に進んだといわれています。

宮本武蔵の妖怪退治

木下家定が城主であった時代のこと、姫路に立ち寄った宮本武蔵が名前を隠して足軽奉公をしていました。

そのころ、城に妖怪が出るといううわさが広まっていましたが、武蔵が平気で夜の出番を勤めていたことが家老の耳に入り、名高い武芸者であることが知られました。

木下家の客分にとりたてられた武蔵に、妖怪退治の命が下りました。

武蔵がある夜、灯ひとつを持って天守閣に登り、3階の階段にさしかかった時、すざましい炎が吹き降り、地震のような音と振動が。

武蔵が腰の太刀に手をかけると、辺りはまた元の静けさに戻りました。

4階でもまた同じことがありましたが、構わず天守を登り、明け方まで番をしていたところ、美しい姫が現れ「われこそは当城の守護神、刑部明神なり。

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その方がこよい参りしため、妖怪は恐れて退散したり。よって褒美にこの宝剣を取らす。」といって姿を消しました。武蔵の前には白木の箱に入った郷義弘の名刀が残されていたということです。

余談ですが播磨国の「白鷺城:ハクロジョウ」、のように別名で呼ばれていた城があります。

播磨・備前に並び立つ名城をはっきりと対比して表すのには{白鷺城・烏城}がその存在意義がはっきりして岡山城は{烏城}として君臨していました。

松本城は近隣に対比される五層大天守を持つ城が在りませんので、外観の黒さだけで{カラス城}と呼んでいると考えられています。

外観が黒い事から呼称されたわけです。

黒いことのたとえを”烏鷺:ウロ”と言い表します

烏城(からすじょう、うじょう)と呼ばれているのは次の3城です。

岡山城 - うじょうと読む
松本城 - からすじょうと読む
黒石陣屋 - うじょうと読む

熊本城の別名は銀杏城(ぎんなんじょう)

熊本城は別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」といい、その名前はこの大銀杏に由来します。清正(きよまさ)公が築城の際にお手植えになったと伝えられ また、清正が亡くなるときに、「この銀杏の木が天守閣と同じ高さとなったときに、何か異変が起こるであろう」と予言し、それが奇しくも明治10年(1877年)の西南戦争のときであったとも言われています。

豊臣方の大名の城は黒い外壁になっているため烏城と呼ばれる傾向にあり、徳川方の城は白い外壁が特徴となっており城を見ただけで凡そどちらの大名の城だったかは想像がつきます(因みに、安土城は黒の外壁だったようで秀吉以下の大名はこれに習ったと思われます)。


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