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zoom RSS 終戦間際に生まれた日本初のジェット機「橘花」

<<   作成日時 : 2014/08/04 21:16   >>

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角信郎さんは1941年11月に海軍機関学校を卒業されると同時に当時最新鋭の主力空­母翔鶴に乗艦し、真珠湾攻撃、インド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平­洋海戦に参加されました。

真実の話を紹介します。

日本海軍が終戦直前に開発したジェット機の隠れた実話

ジェットエンジンの開発の経緯

ジェットエンジンの基本となるガスタービンの研究開発から出発したわけです。

ガスタービンの生みの親である種子島海軍大佐が早くから航空用ガスタービンの重要性を認識しておられ、昭和九年にこれに関する論文を出しました。

パリ在勤二年後航空技術廠発動機部勤務となられ、排気タービン過給器の研究をなされ、昭和十六年春頃にジェット推進法の原理に思いつかれ、排気タービン過給器のガスタービンを利用しながらジェットエンジンの試作実験をして、昭和十八年にネー10と名付 けて実験を開始して、昭和十九年半ばまで続けられ、改良されネー12Bと命名して独力で試作研究が続けられた。

昭和十九年、ドイツより日本に向かって二隻の潜水艦が出航した。

万一に備えてそれぞれが、ドイツの誇るジェット戦闘機メッサーシュミットMe―262の設計図を携えていたという。

一隻は伊号二九潜水艦であり、それに同乗していた巌谷技術中佐がシンガポールから、ジェット戦闘機Me―262のBMW製のジェットエンジンの縦断面図(キャビネ版の写真一枚)および飛行機Me―163のロケットエンジン図面一式のみを持って昭和十九年七月に空路東京へ急遽帰国した。

ジェットエンジンの詳細図を持っていたこの潜水艦はシンガポールを出港後台湾沖で沈められた。

他の一隻も大西洋で沈められていた。

昭和十九年八月末頃永野治技術少佐が航本部員から、種子島大佐の先任部員として着任し、さらに昭和十九年十月初め頃、航本から、蒸気タービンの設計の専門家玉木技術中佐と露木技師が、このグループ参加することになった。

昭和十九年十月末頃に、種子島大佐はネー12Bの不良箇所対策会議の席上で「ネー12Bの設計と実験でかなりの経験も積み上げることが出来た。

しかし、ネー12Bエンジンは中途半端であり、この際過去のことは一切ご破算にして、BMW製のジェットエンジンの写真図面を参考に、出直す方が賢明である。」と主張された。

皆もこれに賛成し、直ちに設計が開始され、急遽鋳造や鍛造がはじまり、発動機部機械工場は全力を上げ て加工にかかった。

僅か四ヶ月と少しで、ネー20と名づけられた第一号機が運転台に据えられたという。

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終戦までの三ヶ月間は橘花の試験飛行の成功を目指して全力を投入した時期である。

木更津での試飛行が決定すると各種の準備が始まり、一号機は七月八日に動翼やエンジン等外せる部分は分解梱包された。そして機体と共にトラックで木更津基地へ向けて輸送した。

一方、この橘花の初飛行にはベテランのテストパイロットの横空審査部々員高岡迪少佐が操縦桿を握ることになった。

テストにおいてエンジンが不調にならず良好であっても、機体設計上、橘花の主輪は零戦用を転用したもので、これを新設計に改めるには半年を要するとされた。

離陸時の速度は零戦では60ノットだが、橘花では100ノットになる。

この制動力改善にも設計変更するならば同様半年を必要とした。

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このほかも未解決項目はいくつもあったが、見切り発車するほど事態は切迫して いたのである。

高岡少佐は当時の追いつめられた戦況に照らして、80パーセントの安全が立てるならば、覚悟の上でこの大役を受託したという。

組織上の変更も同時になされた。一号機の試飛行も実施しないうちに、実施部隊の編成が行われていた昭和二十年七月一日付で、ジェット機部隊が編成され、第七二四海軍航空隊(以下七二四空という。)と名づけ、初代司令には伊東祐満大佐であり、我々の橘花の試飛行にかかわる整備担当者も七二四空に配属され、私自身は木更津派遣隊長を命ぜられていた。

七二四空本隊は伊東司令以下三沢基地に移動し、九九艦爆を使い離着陸の練成を開始していた。当時の言葉で七二四空をナナフタヨンクウと呼びます。

木更津基地の運ばれた一号機橘花の組み立ても終わり、七月半ば頃より私は整備の指揮をとり、自分で操縦桿を握って試運転を担当した。

その頃になると木更津は既に敵戦闘機の空襲を頻繁に受けるようになっていた。

飛行場の東端にある掩体壕の中で日夜整備点検に余念がなかった。

七月二九日に高岡少佐により二回の地上滑走を試み、エンジンと機体全体のチェックを行った。

地上での離陸促進ロケットのテストで一度トラブルが起きた。地上へ鎖をつけてロケットに点火した際、杭が脚の付根を壊した。

直ちに中島飛行機の工員に来てもらい、脚の付根の破損部を徹夜で修理した。

八月六日にも木更津基地に数機のP―51が基地に来襲したが、橘花は掩体壕の中にあって無事であった。

いよいよ試飛行の日、八月七日が到来した。

丁度、その日に昨六日米空軍のBー29が広島に高性能爆弾を投下したと報じた。

この日は燃料を半分以下を搭載しロケットを使用しない軽量の非公式の試験飛行であった。

燃料は松根油を使用した。現在考えれば、これは国力の低下、日本の末期を象徴するものであった。

午前十時半、橘花は駆動車(風洞式のエンジン起動用自動車)により起動され、午後一時スタートの位置についた。

パイロット高岡少佐は二,三十人の関係者の見守る中で、スロットルを全開しブレーキを放し、橘花は前進を始め速度を増した。

橘花は翔んだ! 

機は脚を出したまま右旋回して東京湾上を一周し、無事ゆっくりと着陸した。

僅か十一分でしたが、プロペラのない飛行機が日本の上空を始めて翔ぶことに成功したのです そして八月十一日に第二回の飛行が実施されることになった。

その日以前に掩体壕の中で橘花の整備の合間に、種子島大佐と二人だけでお話をする機会がありました。

種子島大佐は私に「広島に落とされた高性能爆弾は原子爆弾だよ。日本ではこの研究は殆んどしていないよ。」と言われたことを今でも鮮明に覚えています。

栄光の橘花ついに立たず

八月八日ソ連は満州に突如不意打ち侵入を開始し、九日には長崎に二発目の原子爆弾が投下された。

その様な中で八月十一日、橘花は海軍省。

航空本部や航空技術廠などのお偉方が綺羅星の如く滑走路前に並ぶ前で第二回目の飛行を行った。

この飛行は燃料満載で離陸促進ロケット二本を翼下に搭載して、約30分間の飛行する公式の 試験飛行が実施されたのである。

ベテランのテストパイロット 高岡少佐は落ち着いて座席につき諸準備完了、エンジン全開、離陸促進ロケット点火、全員の緊張は最高潮に達した。

橘花は走り出した。

ロケットの出力は終わった。

離陸できる速度まで順調であった。

滑走路の中央まで来た。

しかし、高岡少佐はスロットを一杯引き、ブレーキをかける。

最大重量の橘花は中々減速せず車輪から煙が出る。

滑走路の末端に達し、あわや止まるかと思う瞬間、海岸の崖から海の中にボチャン。

さいわい、崖も低く干潮であっ たためパイロットは無事、橘花は引揚げる余裕もなく潮が満つるともに海面下に沈んでしまった。

この試飛行の様子を映画フイルムにとっていたので、数日後一回だけ再現して映した。後日詳細に原因の調査に利用することにしていた。

しかし、終戦とともにこのフイルムは焼却された。

この事故は機材の不良か、パイロットのミスか、正式には永久のなぞとなったのである。

後年、高岡少佐がある記述の中で「第二回飛行の時に、私の錯覚だと思いますが、地上滑走途中で飛行をやめようと決心して、その処置をいたしましたが、飛行機を壊してしまいました。

間もなく終戦を迎え、その原因は正式には闇の中に葬られたわけですが、私は私の錯覚ではなかったかと思っております。」と述べておられました。

八月十五日の厚木基地

木更津派遣隊は橘花二号機による第三回目の試飛行は滑走路の長い厚木基地で実施することになり、八月十五日、派遣隊は丁度木更津からの厚木へ移動の日であった。

厚木基地に到着したのは夕刻、既に天皇の終戦詔勅が下された後である。

厚木基地は小園大佐以下が徹底抗戦を叫ぶ中心 の戦闘機部隊の基地であった。

私の派遣隊は数十名であったが、私の本隊のある三沢基地の伊東司令と連絡をとって、 今後の行動の指示を受けたかったが、全く通信手段がなかった。

ついに、派遣隊は本隊に合流すべく、独断で三沢基地に向かって出発することにした。

出発に際し、小園司令、副長に呼ばれ、「伊東司令によろしく徹底抗戦に協力するよう伝えてくれ。」と要請された。

徹底抗戦を誓う小園部隊の掲げる楠公の七生報国の旗の林立する厚木基地を後にしたのは八月十八日であった。

三沢基地での復員業務は伊東司令の下で極めて順調に行われ、九月十五日までに全員の復員が完了した。






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