倶楽部 へいちゃん 2

アクセスカウンタ

zoom RSS 「太政官指令」

<<   作成日時 : 2015/03/08 22:56   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

こんばんは。

歴史を紐解いていくのは実に楽しい。

また戦後教育では教えてもらっていない歴史の真実も見えてくる。

そうなると、中国や韓国が主張する領土問題は、まったく無いというのが文字が読めて日本語が理解できる人ならすんなりと頭に入ってくる。

それでも理解できない人は、ネジが一本抜けているか、緩んでいる、はたまたネジ山が潰れていると言えるだろう。

タイトルの、「太政官指令」、なんだこれって感じです。

日本史で習った記憶がない(笑)

ただし、内容はかなり回りくどい言い回しで、当時の日本と韓国の力関係も見えてくる資料でもありますね。

読んでいて、頭が痛くなりました><


この、太政官指令は、1877年3月20日に内務省が出した通達(国立公文書館所蔵)である。

原 文
明治十年三月廿日

別紙内務省伺日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件右ハ元禄五年朝鮮人入嶋以来旧政府該国ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉此段相伺候也

御指令按
伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事

現代文
明治10年(1877年)3月20日

別紙にて内務省が伺った日本海内竹島外一島地籍編纂の件、右は元禄五年(1692年)、朝鮮人入島以来、旧政府の当該国と往復の末、最終的に本邦と関係無との報告があった件を申立てましたところ、伺いの趣旨を検討し、左の通り御指令になったとこの件について伺っております。

御指令案
お伺いの件、竹島と他一島の件は本邦関係無しとして良いと心得る事。

これだと、竹島は韓国領みたいに読める。

韓国ではこれらの記載をこのとき日本が現在の竹島を版図外として朝鮮のものとした最も強力な証拠としているが、日本では太政官指令や太政類典の「竹島外一島」は当時の近代的地図にある「架空の竹島」や「松島」となっている鬱陵島を示しており、実際に版図外としたのは鬱陵島のみであるとしている。

この書類は、単に島根県が提出した書類である「磯竹島略図」を説明しているに過ぎないものであって太政官の意思としては全く証明されていないのだ。

近代的な測量技術をもって位置を明確にした上で国家として領有の意思を明示した史料としては1905年の島根県の告示が現存する最古のもので、それ以降の史料でしか領有権の法的正当性を判断できません。

原文、現代文を読んでも理解しがたい人のために、もうすこし柔らかな言葉で説明をしましょう。

内務省から太政官への伺い

日本海内竹島外一島地籍編纂方伺

竹島の所管について島根県から別紙のとおり伺いが提出されたので調査したところ、その島は元禄5年に朝鮮人が島に来て以来、別紙書類に取りまとめたとおり、元禄9年正月の第1号「江戸幕府の評議結果」に基づき、2号「通訳官ヘの指示書」、3号「朝鮮からの書簡」、4号「本邦からの回答及び口上書」等にあるように、元禄12年までにそれぞれ協議が終わり、本邦関係無いものと聞いているところですが、領土の決定は重大な事項であるので、別紙のとおり書類を添えて念のために伺います。

 明治10年3月17日      
内務卿 大久保利通 代理
                        内務少輔 前島密
右大臣 岩倉具視 殿

本文を読めば、要するに「竹島は江戸幕府のときに朝鮮と協議して本邦関係無しとされたと聞いていますが、領土のことは重大だから念のために伺います」と言っている訳だ。

その趣旨は、「江戸幕府の決定はそのまま引き継いでいいんですよね?」というところにある。

「竹島外一島は本邦関係無し」という判断はその結果として当然付いて来るものだが、この文書の核心は「江戸幕府の決定を維持するかどうか」という政府としての基本方針を伺ったところにある。

島根県の質問にある「竹島外一島」とは「竹島」という名前の島と「松島」という名前の島のことであり、その「竹島」と「松島」とは地理を知る者が見ればまぎれもなく朝鮮の鬱陵島と今日の竹島を指しているのは明らかであること。

一方でその当時に西洋から流入した地図では、測量の誤りに起因して、竹島(鬱陵島)の実際の位置から西北の方向(朝鮮半島に近い方向)に飛んだ位置に実際には島はないのに「竹島」(アルゴノート島)という島があるように表示され、実際に存在している竹島(鬱陵島)の位置には「松島」(ダジュレー島)という名前の島が表示されていた。

そして今の竹島は描かれていなかったり、描かれている場合でもその名前として「松島」と表示したものはなかった。

そういう、現実の島の配置とは異なる誤った地理情報が存在していた。


画像


「華夷一覧図」の日本部分。隠岐諸島の上方に「松シマ」「竹シマ」と記された竹島と鬱陵島が日本領として赤く塗られている(島根県提供)

内務省自身が誤った地図を作成していたことや、外務省書記官の回答文書では、内務省が太政官指令の「松島」と捉えていた島は鬱陵島であったことが明示されている。

これが答えなのだ。

太政官指令にいう「竹島外一島」(竹島と松島)とは、鬱陵島と今日の竹島のことではなく、その当時の誤った地図に描かれていた「竹島」と「松島」、すなわち実在しない島と鬱陵島のことをそれと知らずに想定していたという結論になる。

明治10年太政官指令の後に明治政府が取った行動をつぶさに見ていけば、「外一島」とは今日の竹島ではなく鬱陵島であったのであって、明治10年太政官指令は今日の竹島について述べたものではなかったのだから、現在の竹島領有権論争には何の関係もない史料ということになる。

まとめで、 太政官指令「本邦関係無之相聞候」は簡単に決まったものではありません。

指令案が稟議に回され、右大臣・岩倉具視や大隈重信など参議の承認・捺印を要した重要決議でした。

佐田白茅とともに朝鮮に派遣された森山茂は、その後も朝鮮との交渉役を続け、1875年12月に締結した日朝修好条規には外務権大丞として関わっています。

太政官指令が鬱陵島(及び隣接の島)の放棄のみならず松島(=『竹島』)までも放棄となれば、森山茂の何らかの言動が記録に残っていると思われます。

また、1905年の「竹島を島根県に編入」の折りには、森山茂は勅選の貴族院議員になっていました。

この「竹島外一島」を直接扱った当時の内務少輔・前島密も貴族院議員になっています。

もし「外一島」が『竹島』(=独島)ならば、島根県編入前に無主地であることを確認しているのですから、「太政官指令を以て放棄した島だ」と発言したでしょう。

太政官指令が出された当時の島根県参事(1878年に県令)・境二郎も山口県に生存しています。

彼らにとって、1905年の「竹島を島根県に編入」は西欧列強に付け入る隙を与えないための防衛策であり、至極当然な手続きの実施であって、日本の領土を再確認しただけでしょう。

太政官指令に反するならば、必ず誰かが反論の声を上げます。

太政官指令を軽んじたことになるからです。

過去の記録から照らし合わせても、現竹島が韓国領だったという証は何一つでてきません。捏造した資料ならいくらでも出てきていますけど(笑)

日本人ならば、本当の意味で歴史資料に真摯に向き合って領土問題に白黒を一刻も早くつけなければならないということです。

よく言う、「孫子の代まで引きずらないためにも」です。。

こうした流れ(明治新政府樹立〜1905年日露戦争)を見ても、当時の人々にとって、「外一島」が『竹島』(=松島)を指すという認識は全くなかったものと思われます。


テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文
「太政官指令」 倶楽部 へいちゃん 2/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる