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zoom RSS 歴史に埋もれさせてはいけない人物

<<   作成日時 : 2015/04/05 20:25   >>

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こんばんは。

事実で取り上げられて、超有名な人物は数多い。

坂本龍馬、勝海舟にも影響を与えたとされる「ジョン万次郎」をご存じだろうか?

文政10年1月1日(1827年1月27日)に、土佐の中浜(現:高知県土佐清水市)の貧しい漁師の次男に生まれる。

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9歳の時に父親が死亡。幼いながらも稼ぎに出ることとなり、中浜浦老役の今津太平宅に奉公に出た。

天保12年(1841年)、万次郎14歳。正月に仲間4名と共に宇佐へ漁に出るが、そこで遭難してします。数日間の漂流後、太平洋の無人島「鳥島」に漂着。

火もない、食べ物も、水もほとんどない無人島で過酷な生活を送った。

そして漂着より143日後、万次郎達は海亀の卵を取りに島にやってきたアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって救助された。

救助されたはいいが、当時の日本は鎖国下にあり外国船が近づくことは困難であり命の保証もなかった。

ジョン・ホーランド号の船長・ホイットフィールドは、船に残ることを決めた万次郎以外の4人をハワイで降ろした。

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万次郎はホノルルで仲間と別れ、ジョン・ホーランド号の一員として船に乗り込みました。

万次郎のことを気に入っていた船長は、アメリカへの渡航を決めた万次郎を喜んで受け入れた。

その後グアム、タヒチ、フィジーなどを経由し、船長の故郷であるフェアヘーブンへと船は向かった。

この航海の中で、船名にちなんだ「ジョン・マン」という愛称をつけられ、そう呼ばれるようになった。

そして、天保14年(1843年)万次郎は日本人として初めてアメリカの土を踏んだ。

万次郎はホイットフィールド船長の養子となる。

初級学校のオールド・ストーン・スクールでは英語の読み・書きなど、高等学院であるルイス・バーレット・スクールでは航海術・造船・数学測量学などを学んだ。

万次郎は大変熱心に勉学に励み、主席を取るほどだった。

弘化3年(1846年)学校を卒業した万次郎は、捕鯨船・フランクリン号に給仕係として乗船。その後、一等航海士、副船長になる。

数年の航海を経た万次郎は日本に帰国することを決めた。

嘉永2年(1849年)ニューベッドフォード港に入港した万次郎。

そのころカリフォルニアはゴールドラッシュが起こっていた。

そこで万次郎は帰国資金を得るためにカリフォルニアへ向かった。

金鉱で約3ヶ月働き、資金を得た万次郎は上陸用の小舟を買う。

そのボートは「アドベンチャー号」と名付けられた。

帰国の準備をした万次郎はハワイ・ホノルルにいる仲間のもとへ向かう。

仲間の1人はすでに亡くなっており、結婚してハワイに残る1人を除いた2人と万次郎の3人で日本へ向かうこととなった。

嘉永4年(1851年)に万次郎たちは薩摩藩領であった琉球へと上陸。

番所で尋問を受けた後、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡り尋問を受けた。

薩摩では藩主・島津斉彬から直々に取調べを受けた。

そして帰国から約2年たって、ようやく土佐へと帰国。そこでも取調べを受ける。

吉田東洋により取調べが始まるが、万次郎が日本語をほとんど忘れていたため、役人たちを困らせた。

そこで、東洋は蘭学の知識があった絵師・河田小龍をたちあわせることにした。

小龍は万次郎を自宅へ連れ帰った。

小龍は万次郎から英語や西洋事情などを学び、聞き取った。

その内容をまとめたものが
全4冊からなる『漂巽紀略』。

小龍が万次郎から得た西洋事情や思想といったものは小龍を通して多くの幕末維新の志士に伝わり、多くの影響を与えたとも言われている。

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嘉永6年(1853年)、万次郎は幕府に招致され、江戸へと赴いた。

直参旗本となり、中浜の姓を頂いた万次郎は中浜万次郎と名乗るようになった。

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日本の開国に先駆的役割を果たしたジョン万次郎の記念碑が豊見城市翁長にあります。

その後、土佐藩校「教授館」の教授に就任。

教授館では、後藤象二郎や岩崎弥太郎といった人物が万次郎から教えを受けた。

万次郎は翻訳や通訳、造船などに力を注いだ。

安政元年(1854年)には、鉄と結婚。

安政4年(1857年)には軍艦教授所の教授になる。

後に軍艦教授所の責任者となる勝海舟とはこの頃から交流があったようだ。

やがて通訳の任からは外されてしまう。

しかし、日米和親条約の締結に影ながら尽力した。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換のために派遣された海外使節団の一員として「咸臨丸」に勝海舟や福沢諭吉らと共に乗船。

アメリカでは福沢諭吉と共に『ウェブスター大辞書』を買い求めた。

その後も万次郎は活動を精力的に続けた。

慶応2年(1866年)には、藩主・山内容堂の命により、後藤象二郎らと共に藩校「開成館」の創立に貢献した。

また、後藤象二郎らと共に上海へ行き、土佐藩船「夕顔号」などを買い入れた。

ちなみに「夕顔号」は坂本龍馬が後藤象二郎に船中八策を示した時に乗船していた船。

明治2年(1869年)に開成学校(現:東京大学)の教授に就任。

明治3年(1870年)には普仏戦争の視察団としてヨーロッパへ派遣された。その途中、ニューヨークに立ち寄った際に恩人であるホイットフィールド船長と再会を果たす。

明治4年(1871年)ロンドンから帰国した万次郎は病に倒れる。回復はするものの、その後は落ち着いた暮らしをするようになった。

明治31年(1898年)脳溢血により71歳で死去。

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