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zoom RSS 使い方がおかしい「自粛」のありかた。

<<   作成日時 : 2016/04/25 18:39   >>

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何かことが起きると「自粛」という言葉がいたるところで飛び交う。

「自粛」の本来の意味を理解して使っているのか、怪しいところだ。

意味は、自分から進んで、行いや態度を慎むこと。

九州の熊本を中心とする地域が、二度にわたる大きな地震に襲われて、たいへんな被害が出ているうえに、余震もなかなか収まらない。

震災を受けて、日本の社会に広がる自粛ムードをめぐり、論争が起きているのをご存知だろうか。

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身内で不幸があったりして何かを自粛はごく当たり前のことだ。

問題になっているのは、「過度な自粛」。
そう言うよりは、「世間の目を恐れての萎縮」にちかいムードが漂っていることだろう。

人間の脳には、前頭葉を中心とする「共感」の回路がある。
他人の痛み、苦しみを、自分のことのように感じる共感能力は、人間らしい、素晴らしい心の働きだ。そのような共感に基づき、自粛することは悪いことではない。

問題なのは、共感が自発的なものではなく、時に「強制」されてしまうということで、日本のように「同化」の圧力がもともと強い社会では、自ら共感して自粛するというよりは、自粛が外から強制されてしまうことも多い。

悲劇的な報道や映像を見ていると、心は沈む。

なくなった方もいるのに自分は生き残っていると感じる申し訳なさが楽しむことに「罪悪感」を持つことになる。

罪悪感の中には、被災地で頑張っている人に対しての罪悪感もあるだろう。

今の日本を覆っている「自粛ムード」の中には、多分にそのような側面があるのではないだろうか。

自粛するか、普段通りにするか、それぞれの方が、「選択の自由」を行使してこそ、持続可能な被災地支援が可能になるし、復興も早まる。

大切なのは、自分と異なる選択をしている人を前にした時、その選択を非難しないことだろう。

しかし実際には、少数のクレームを恐れての「自粛」が行われているのでっはないだろうか。

それが重なってくると「過剰な自粛」になる。

問題を起こさないように、クレームが来ないようにしようと思えば率先した自粛を行う方向にどうしてもなってしまう。

要するに部外者が「自粛」という名の仮面を被ることによって、艱難辛苦と同調しているという共同幻想を生み出すある種の装置が「自粛」という言葉だ。

実効的な消費行動(寄付や、熊本に縁のある商品の購入)などを通していくらでも支援の方法があるが、「自粛」にはそれがない。

「実効」よりも「自己愛」を優先する少なくない人間こそが「不謹慎」だと思うのが、いかななものか。

逆に言うと、自粛すべきなのにそうでしていない人は格好の攻撃対象にされるという事だ。

「自粛」は、被災地に対する哀悼や敬意ではなく、単に自己愛とナルシシズムの集積体であると知るべきだろう。。


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